映画の中のクラブ化粧品

2015.07.24

戦前の松竹映画を見ていると気になってくるのが「クラブ化粧品」の宣伝の多いこと。
たとえば、夜のネオンのなかに「クラブ白粉」の看板があったり、売店に商品が並んでいるのを映すのはまだやさしい方で、あからさまなものになると登場人物が「クラブ歯磨つかいなさいよ」とか「クラブ白粉買おうかしら」なんて台詞に商品名を出したりします。
松竹映画ばかり観ていると「当時の化粧品はクラブしかないのかな」と思ってしまいそうなほど、宣伝効果は抜群(笑)

クラブ化粧品とは、明治36年(1903年)に神戸で創立された中山太陽堂が発売した製品で、白粉や歯磨粉、美容クリームなど当時の女性にとっては非常にメジャーな美容品でした。
戦前の雑誌では、裏表紙がクラブ商品の広告ということも珍しくありません。

創業者の中山太一はメディア戦略に長けた人物で、広告におけるグラフィックデザインの重要性を感じ、社内にイラストレーターやデザイナーを雇って先進的な広告展開を行いました。
大正11年(1922年)にはプラトン社という出版社を設立、「女性」「苦楽」といった雑誌を創刊して多くの人材を輩出しています。
資生堂のロゴなどで有名な山名文夫もこのプラトン社の出身です。

商品の宣伝媒体として「映画」に目をつけた中山太陽堂、いったいどういう経緯で松竹とタイアップするにいたったのでしょうか。
まず、理由としては単純に松竹が現代映画をつくっていたから、ということがあると思います。
時代劇の劇中にクラブ化粧品を出すわけにいきませんもんね。
(ということは、現代劇を撮影していた他の大手(日活やPCL、のちの東宝など)の映画にも同じように広告を打っていたのか?今は松竹映画ばかり観ているので分からないのですが、そのうち日活や東宝も確認したいと思います)

そして、中山太陽堂と松竹映画の両方に関係している人物が、演出家の小山内薫です。
小山内は松竹が大正9年(1920年)に設立した「松竹キネマ俳優学校」の校長として招かれ、同年設立された松竹蒲田撮影所の撮影総監督もつとめています。
彼は3年ほどしか映画界に関わっていませんが、のちに活躍する多くの映画人を育てました。
そして松竹から退いたあと、小山内は中山太陽堂の顧問になり、プラトン社の立ち上げに関わっているのです。

小山内薫と松竹、中山太陽堂のかかわり
大正9年(1920年)
松竹キネマ俳優学校 校長に就任。
松竹蒲田撮影所 理事兼撮影総監督に就任。
松竹キネマ俳優学校解散、松竹キネマ研究所設立。

大正10年(1921年)
松竹キネマ研究所解散。

大正12年(1923年)
松竹から退く。
中山太陽堂の顧問に就任、プラトン社の設立に関わる。

大正9年~10年がめまぐるしいですね…。
映画の発展途上期、現場が試行錯誤していたことが分かります。
小山内が、有名な築地小劇場を立ち上げるのは、このあと大正13年(1924年)のことです。
映画の世界から退いたあとも松竹と良い関係を保っていたのか分かりませんが、
懇意だった中山太陽堂の中山太一から「映画というメディアでクラブ商品を宣伝したいんだ」と相談され、松竹を紹介したということも考えられます。

小山内は昭和3年(1929年)に亡くなっています。
彼がつないだかもしれないクラブ化粧品と松竹映画が、その後もずっとタイアップしているのは面白いことです。

東のレート、西のクラブ
戦前の雑誌を見ていて、もうひとつ良く見かけるものに「レートクレーム」に代表されるレート化粧品の広告があります。
こちらは、東京の平尾賛平商会が製造販売していました。
“東のレート、西のクラブ”といわれたそうですが、個人的にはこういった広告で目にするのもクラブの方が多いような気がしています。
やはり中山太一の力量によるものでしょうか?

中山太陽堂は現在クラブコスメチックスと社名を変え、化粧品の製造販売をおこなっています。
(1970年にはマリークワント化粧品の日本での独占販売権も取得しています。関連会社:株式会社マリークワントコスメチックス)
大阪にある本社ビルにはギャラリーがあり、戦前からのクラブ化粧品に関する展示をしているようです。行ってみたいな。

一方、レートクレームの平尾賛平商会は昭和29年(1954年)に倒産しています。
1930年代のレートのカラー広告は美しく、「本当に戦前?」とビックリするほど、今みても古さを感じさせないデザインのものが多くあります。
いまも残っていたら、どんな化粧品をつくっていただろう、と興味がつきません。